長谷部信連の墳墓(ジム)
鎌倉時代活躍した武士の墓
設置場所:石川県輪島市山岸町
輪島たいむすの独断的評価(日中に活動した場合を想定)
駐車場 ★☆
飲 食 ★★
休憩所 ★☆
トイレ ★★
周辺のジム、ポケスト ☆☆
総合評価:6点(10点満点)
解 説
長谷部信連は、鎌倉時代に能登へ赴任してきた地頭です。それから32年間にわたり広大な大屋荘(現在の輪島市から穴水町にかけての地域)を治めていました。長谷部信連の墓は地元で「ちょうづか」とも呼ばれています。秋には、彼岸花の名所となります。
長谷部 信連(はせべ のぶつら)は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。右馬允・長谷部為連の子。長氏の祖。
人となりは胆勇あり、滝口武者として常磐殿に入った強盗を捕らえた功績により左兵衛尉に任ぜられた。
後に以仁王に仕えたが、治承4年(1180年)に王が源頼政と謀った平氏追討の計画(以仁王の挙兵)が発覚したとき、以仁王を園城寺に逃がし、検非違使の討手に単身で立ち向かった。
奮戦するが捕らえられ、六波羅で平宗盛に詰問されるも屈するところなく、以仁王の行方をもらそうとしなかった。平清盛はその勇烈を賞して、伯耆国日野郡に流した(『平家物語』巻第4「信連」)。
平家滅亡後、源頼朝より安芸国検非違使所に補され、能登国珠洲郡大家荘を与えられた。
信連の子孫は能登国穴水の国人として存続していき、長氏を称して能登畠山氏、加賀前田氏に仕えた。
また、曹洞宗の大本山である總持寺の保護者となり、その門前町を勢力圏に収めて栄えた。